オンライン小説『リバウンド』rebound-001 上手につきあうとは?

 

やたらに冷たい小雨の降る春の朝、病院の前でバスを降りると傘の群れに圧倒された。びしゃびしゃとクルマが行き交う音を聞きながらしばらく立ち尽くす。目の前を外来にむかう患者とその家族らが無言で通りすぎていく。皆、足元を見ているので目が合わなくて助かる。このまま水たまりにへたりこんだら、救急車が運んでくれるのかなと思ってみたが、とにかく待合室の椅子をめざすことにした。

「ずいぶんひどいね」若い医者はぼくの裸の上半身を見て言った。
「感染してるよ」
彼はブランドものの金色のボールペンでぼくのただれている脇腹を指して言った。
「ここんとこ忙しくて」
くだらないいいわけをしてみようと思ったが、そうしたところでつらいのはぼくで、脱いだシャツには黄色い浸出液とヒフの残骸がこびりついていて、剥がれ落ちたヒフが診察室の床にふけのように無数にこぼれおちたのをお互い凝視してしまい何も言えなかった。若い医者の後ろに立っている髪に白いものが混じった年配の看護師は床をちらっと見て顔をしかめた。宿命的な二日酔いで気持ち悪くて小さな丸い椅子にすわっているのがやっとだったし、ぼくの顔と身体は火災現場から救出された人のように真っ赤にただれていて、鉄のような血のにおいがしていた。
「入院したほうがいいよ」
彼はぼくを見ずにカルテをめくり返している。
これまで『ワイプ』の悪化と感染症、帯状疱疹などで8回入院した。短期間に大量の『セラ』を投与することで症状は一時的に落ち着くが、退院し『セラ』を減らすとまたすぐに元にもどった。その度に病院を変えた。
「また入院ですか?」ぼくはせいいっぱい毒づいてみた。
ここの大学病院には2回入院している。じゃあ前回の入院はなんだったんだ?長めに慎重にカットされている髪と彼の着ている白衣が必要以上に清潔に見えて腹が立った。

「その様子だと仕事もたいへんでしょ?」
しごともたいへんでしょしごともたいへんでしょしごともたいへんでしょしごとはたいへんだよこのやろうしごとは死ぬほどたいへんだよこのやろうおまえになにがわかるんだ。取引先の受付の女子が、ぼくの触った受話器を机の下でばい菌をぬぐうかのように拭かれても、担当者に見積書を指の先でつままれても、べつに無理して来ることないんだよといわれても、通い続けて、忘れていたような棚のすみに残っていた条件の悪い発注をもらわなければ、ぼくには売り上げをあげる方法はなかった。この顔では新規の得意先には2回目でていよく断られる。しごともたいへんでしょ?しごともたいへんでしょ?しごともたいへんでしょ?どうせそんなていどなんだからあなたには存在価値はないのだからあきらめて入院しろと聞こえた。

年配の看護師はぼくが立った後にどうやって掃除しようかとそわそわしている。たぶんラテックスの手袋をして回転する粘着テープで床や椅子をころころとやった後、アルコールスプレイをかけてペーパータオルで拭く。その間、若い医者は手を殺菌しうがいをするだろう。でも、彼はぼくの体に一度も触れていない。

「・・・入院すれば治りますか?」
ぼくは両手をぎゅっと握り締めてなんとかゆっくりと言った。
「『ワイプ』と上手に付き合いましょう」彼は無表情に言った。
『ワイプ』と上手に付き合いましょうと12年間聞いてきた。8軒の医者が同じことを言った。どこかに書いているのだろうか?上手に付き合うとは入院を繰り返すことなのか?
「・・・今日は帰ります」ぼくは奥歯をかみしめてなんとか言った。
「そう」彼が言った。「それならいつものお薬をだしておきますから」
彼はPCにいくつかキーを打ちこみ、診察は終わりだとエンターキーをカタンと叩いた。ぼくはヒフのひきつる痛みをこらえて椅子から立ち上がる。
這うように病院に来ても少しも楽にならないで帰るということを何年も続けてきた。いったい自分は何をしにきたのだろうと思う。ドアには子猫が毛糸玉でじゃれている製薬会社のカレンダーが貼られていた。若い医師が猫好きだとしても少しも気分が良くならなかった。実際には入院するお金がないのだ。

大学にもぐり込んだ18歳の春に『ワイプ』と診断された。当初、処方された『セラ』は魔法のようによく効いた。しばらくはなんでもできるような気がしたが、まもなく量が増えた。20歳を過ぎた頃には『セラ』をポケットに入れていないと人間らしい心持ちでいられなくなった。『セラ』が効いている間に急いで行動した。おおぼらを吹き極端な言葉を自分と周囲に浴びせ続け、自分を何か特別な存在だと錯覚させて広告会社に就職した。ローンで買ったバブルなスーツでヒフと不安を隠し、存在理由を示すために強迫的に仕事にのめりこんだが、30歳を手前に大量のアルコールが必要になった。泥酔した帰り道、いつも自分はとてつもない闇へ向かって下り坂を転がっているのだと感じていた。
小雨の中、帰りのバスを待った。傘を持つ手が冷たい。行き交う車の排気ガスの中でしっかりと咲いている大きなサクラの木が見えた。古ぼけた幹から縦横に枝を伸ばし、びっしりとピンクの花びらを付けている。古ぼけた太い幹はゆっくりと静かに息をしているようだった。いさぎよく見事な光景に思えた。自分はこのまま薬漬けの樽の中でゆっくりと破滅していくのだと感じた。どうせなら『セラ』を止めることにした。

翌月の診察日には、全身のヒフの水分が一滴もなくなり、表皮が崩れ落ち粘膜がむき出しになった。かろうじて血と体液がにじみ間接が動かせる。シャツをゆっくりとかさぶたからむしりとらなくてはいけない。痛みに耐え歯をくいしばる。脱ぐのに手間取っていると、例の看護師が汚いものを見るように顔をしかめた。

「どうして私の指示に従わないのですか?」
若い医者が言った。彼は眉を寄せてぼくのむきだしの粘膜を見た。
これまずっと従って「指示に従ってきた」と言い返した。
ぼくは彼がはたらいていることに嫉妬していた。彼は珍しくぼくの目を正面から見た。たぶんクレーマー対応マニュアルを頭の中で読んでいるのだろう。あなたの治療は続けられない。診察はここまで。これ以上言うことはない。あんたもおとななんだからさっさっとそのシャツを着なさい。あなたの後ろにはおおぜいの患者さんが待っているのだ。と言うときには患者の目をみていいましょうと。

彼は頭をふるとボールペンを胸のポケットに刺しカルテを閉じた。看護師がこのまま別の科へ行くようにとビニルファイルに紙をいくつか挟んで持たせた。ぼくはシャツを無造作に羽織ったままふらふらと診察室を出た。待合室にいた数人がぼくの身体をチラッとみて目をそらした。頭の中が真っ白になり、がたがたと手足が震えた。ビニルファイルには精神科外来へのご案内と書かれた紙が入っていた。人気のない廊下をよろよろと歩いて、ゴミ箱にビニルファイルを放り込んだ。自分は医者に見限られたのではない。自分であの医者を切ってやったんだと思うことにしてもう少し正気でいることにした。

『リバウンド』 1:  2020.8

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