オンライン小説『リバウンド』rebound-013  真新しいヒフ

師走のガクダイの駅を降りると風景が違って見えた。同じ風景なのだが色鮮やかで濃淡が強い。すれちがう人々が意地悪ではないような気がする。午後早い時間の東急ストアはすいていて入り口から店内が見渡せた。師走っぽい音楽が聞こえる。高架下の小さな交番のお巡りさんはいつもと同じ位置に立っていた。ぼくは帽子を深くかぶっていない。うつむいて自分のつま先を見ていない。正面を向いて歩いている。別の世界を歩いているのようだ。

いつも出前を取っていたそば屋の店内にはじめて入り、もりそばを頼んだ。わさびとつゆとそばが衝撃的にうまい。濃いつゆとそばをすすっていると、自分が変わったのだということに気がついた。
滞在期間の延長やチケットの変更はドクターボノのオフィスがやってくれた。昨晩、別れはやっぱりスシだろうとドクターが好きなスシレストランに連れて行ってくれた。(いやいやぼくは明日スシの国に帰るんだけど)。ほりごたつ式のテーブル席に靴をぬいであがりサシミとスシを食べて冷たいサケを飲んだ。奥さんも大いに飲んだ。ぼくは遠い異国でサケを飲んで日本を想った。今ぼくがこうしている間にも日本では『セラ』は投与され続け『ワイプ』患者は浸出液をたれながしてヒフがひきつっているのだろう。ほんの数週間前までぼくはその現実に住んでいた。どうして今ここで何事もなかったようにサケを飲んでいるのかがわからなかったが、これもぼくの現実であるのはたしかだった。ポートランドに来なければぼくは感染症で死ぬか発狂していたというのも現実だ。それはドクターも奥さんもぼくも分かっていたがそのことについては3人とも触れなかった。情緒が交わされていて暖かい時間。口数がすくなくても心が通ったディナー。帰り際にレストランの前で奥さんがぎゅううっとハグしてくれた。ドクターはじゃあまたなと言って握手すると振り向かないですたすたと歩いていった。

年越しそばの予約や大晦日の営業時間の張り紙で年末ムード満載のそばや。だし汁や天ぷらの臭いを後にしてアパートへむかった。トウキョーにはつめたく乾いた風が吹いていた。真新しいヒフを感じる。交差点わきの公園では子供たちがボールを蹴りあって意味のない楽しそうな歓声をあげていた。目黒通りと環7はいつもどおりうるさくてほっとする。アパートが近づいてくるとだんだん憂鬱な気分になった。どたばたと出かけたので部屋がすごいことになっていることを思い出したせいではなく、ちょっと前の自分ような人間が日本に大勢いるという事実を知っているという疼き。それはざわざわと繰り返すさざ波のようにやってきた。たぶん彼ら彼女らには今のところ希望はなく、いまこの瞬間もじゅくじゅくとにじみ出る滲出液とはげ落ちるヒフと気が狂いそうなくらいのかゆさと痛みに苦しんでいる事実をぼくは誰よりも知っている。ネット上には彼らのやりどころのない嗚咽や怒りがテキストやきわどい画像として飛び交って、糾弾したり糾弾されたり傷つけたり傷つけられたりと出口のない内ゲバが続いている事を知っている。
胃の底に蕎麦湯のあたたかさを感じていたが、さざ波の端にどうしようもないよどみが湧いてくるのを感じた。

2020.9.1

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