オンライン小説『リバウンド』rebound-029   娘とご両親。

希望する人にはドクターボノの治療に関する説明をした。それはインフォームドコンセントとよばれる仕事となった。ぼくは自分の価値観を添えずに同意書の内容を伝えた。幼児、小学生、中学生、高校生、大学生、大学院生、ビジネスマン、自営業者、教師、保育士、セラピスト、アーティスト、作家、看護師、主婦、引きこもり、ニート、経営者、市会議員、サーファー、登山家、陶芸家、プロアスリートなどさまざまな人が治療を希望した。驚くべき事に現役の医者やその家族も少なくなかった。彼らはポートランドで『セラ』減薬治療をだいたい4週間ほどの滞在で受けることができた。

4月の第二週、風もやみぽかぽかとあたたかくやわらかな日差しが東横線の高架下に陽だまりをつくっている。駅を3つ分歩いた。通勤の人々はまだコートを着たほうが良いのかなと悩みながらも何人かは春を楽しんでいる。朝、起きて歯を磨いて、普通に部屋を出ることができる幸せのようなものをじんわりと感じる。ヒリヒリと衣類にくっつくヒフの粘膜。ないことにされる終わりのない痛み。それがどんな時間だったのかを他者に伝えることは難しい。

その母親は頻繁に鳴る携帯に忙しく耳をあてつつ合間に機関銃のようにしゃべった。
「だからそんなことはどうでもいいのです。そのアメリカの医者にいくらお金を払えば治してくれるのですか?」
ぼくはうんざりしていた。予約の電話のときからこの母親はぼくを業者扱いした。いまでは、まるで不潔な動物を見るような目つきをぼくにむけている。右手にはいつなんどきばい菌がとんできてもいいようにと大きめのピンクのハンカチが握られている。
「あなたは保証してくれるのですか?」
目の前にあるものすべてのストレスは排除する。許さない。というようにまゆをしかめている。
「娘が治らなかったらどう責任をとってくれるんですか?」
ぼくは申し訳ないですがと席を立とうかと思ったが娘さん本人がまだ一度も口を開いていないことが気になった。
「病気の治療ですから医者が患者を診察してみないとわからないとおもいます」
「ほんとうに治せるかどうか聞いているのです」
「誰のですか?」
「えっ?」
「誰の病気が?」
「うちの娘に決まっているでしょう!」
母親は金切り声を上げた。数人のお客さんがこちらを見た。父親はこのような空気に慣れているようで動じなかったが咳払いを小さくひとつした。こほん。しーん。スタバの音楽。よけい気まずい空気。ぼくはこういう時にいつも感じる同情と憤りの両方に耐えた。本人は高校生(たぶん)。パジャマの上にコートを羽織っていた。サンダルをはいた足は包帯で覆われている。フラペチーノにも手をつけず機関銃のとなりでうつむいてじっとしている。顔は隠しようのないほどリバウンドが進行していた。表皮のほとんどが損傷していてキイロのかさぶたに覆われていた。まつげも眉もすべて抜け落ち、ニット帽を被っているが髪の毛も失っているのだろう。寒さに耐えるかのように両手で身体をぎゅっと抱いている。(わかるよ)ぼくは恐ろしい形相の母親の視線に耐えながら、本人に向かって話した。
「これまで長い間とても辛い生活を送ってきたことをぼくは痛いほどわかります」
息を吸い込んで何か言いかけた母親を父親が制した。娘がふいに顔をあげて、はじめてぼくに目をあわせた。(どんな気分なのだ?)
「死にたい」
ぼくはうなずいた。(無理も無いよ)。彼女の両目から涙がこぼれ落ちた。それをきっかけに子どものように泣きだした。スタバで学びつつあることだが、患者は自身の惨状を他者に共感されたことがないのだ。たぶんそれは医療者の治療ガイドラインには書いていない。彼女はぼくに伝えたいのだ。医者にも家族にもたぶんクラスメートにも蓋をされてきた気持ちを。母親はしばらくぼくを睨んでいたが、嗚咽する娘の肩を抱きはじめた。父親も彼女を抱きしめたいのだろう。けれど大きくなってしまった娘にどのようにしていいのかわからない。居心地悪そうにしている。患者の親は、子供の治療のため当たりまえに病院に通い続けた。いまでは、子供の惨状を目の前にして、自らがそうしてしまったのではと疑いはじめるがそれは受け入れ難いことだ。
「腹立たしく思われる点はよく分かっているつもりです」ぼくは母親に言った。
テーブルの上の携帯が鳴りだした。母親は携帯を無視した。泣いていた。
「あなたのことが聞きたい」父親がここぞとばかりに声を出した。ぼくは苦いコーヒーをひとくち飲んだ。話した。
「あなたも大変だった」父親が言った。ぼくはうなずいた。父親は娘さんのこれまでの経緯とつらい胸の内を話した。ぼくはうなずいた。
「あなたはどう思うかね」父親は娘の方を見て言った。娘は嗚咽が終わり、しくしくとしゃくりあげている。
「ぼくはアメリカの肩を持つつもりなど毛頭ないのです。日本の保険医療にも良いところがあると思います」
娘が顔をあげて聞き耳を立てている。
「患者が適切な医療を必要とすることはあたりまえのことなのだと思います」
父親がなんどかうなずいた。
「『セラ』がどの程度の時間や深さでヒフに影響しているかは専門の医者が診察をしないとわからないのではないか。ということをお伝えしたいのです」
娘が母親のハンカチで鼻をかんだ。
「私は専門の医者に診てもらいたい」娘が言った。
「先月も○○大学病院の○○先生のところに行ったのよ?」母親が言った。
ダイガクビョウインの○○センセイダイガクビョウインの○○センセイダイガクビョウインの○○センセイという記号はスタバの宙に舞ったま誰も手を付けようとしなかった。

2020.9.30

 

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