オンライン小説『リバウンド』rebound-032   ユウジンのDVD。

早い夏、小雨が降ったりやんだりするきまぐれで肌寒い朝。
都市生活者は上着を脱いだり着たりする必要がある。地下鉄のホームにはこの時期特有の宿命的な黒っぽいカビのにおいがした。オフィスに着くとリタはうすいデニムのジャケットを脱いだ。机のPCが立ち上がる前に内線が鳴った。代表番号経由で新聞社の方から電話だと告げられた。ユウジンだった。
「今度は医者なんだ」
ユウジンがどこかの駅にいるらしいことが背後の音で分かった。
「どういうこと?」
「医者がカンファレンス会場で自殺した」リタはそのカンファレンスの事を新聞で読んで知っていた。
「昨日はエス市だったのね?」
「これから会えるか?今トウキョーにいるんだ」
「すぐいくわ、どこ?」
「オカキやの隣のスタバは?」
「わかった、30分でいくわ」
元恋人同士は待ち合わせ場所を決めるのが早い。言葉が少なくてもすぐに分かる。リタはかばんを肩にかけて電話を切ろうとしたがユウジンが言った。
「なんかちょっとやばいんだ」
「えっ?」ユウジンは急いで歩いているらしく電波状況が悪く声が途切れた、
「だれかに・・・つけられて・・・やば・・・ノートパソコン・・・」
「パソコンが何?」そのままツーと切れた。リタはホワイトボードに“アザブジュウバン取材”と書いてオフィスを出た。胸騒ぎがした。あの段取りユウジンはトウキョーに着いてから電話をしてくるようなタイプではない。地下鉄に乗っている間中、ユウジンのアドレスを探したがなかった。4年前に別れてから一度もメールをしてないことに気がついた。南北線に乗り換えて登りのエスカレーターを駆け上がってオフィスを出てから25分でアザブジュウバンの地上に出た。スタバの自動ドアを入ってレジカウンターをスルーして階段を上った。2階にはいなかった。ソファーのある3階に上がった。いない。単調でソフトな音楽がうっとうしい。いつからジャズはスムーズになった?どこにも行けないようないらだちをずっともてあそんでいるよな気がする。リタは階下に下りてドリップコーヒーを買い、入り口近くの背の高い椅子に座った。ブロンドの母親が乳母車の赤ん坊にミルクを与えながらチョコクランチを食べていた。異国の地での子育てはどんな感じなのだろうか。あの赤ん坊は日本生まれなのだろうか。日本で暮らすとはどんな気分なんだろう。いつか自分も子どもを持てるようになるのだろうか。そんなことを考えて30秒ほど息を整えた。

かばんから新聞を取り出して例の記事を読んだ。かっぷくのよさそうな男の笑顔。コクミンのケンコウヲマモルシンヤクヲハッピョウカワムラ氏。「セラⅣ」は多くの患者の助けになるだろう。医師の指示に従って使う限り副作用は全くないと書いてあった。これは取材記事ではない。聞き手がいるインタビュー記事のように構成されているがライターの完全原稿を入稿していることがリタにはわかる。文脈が対象者に限定的で断定的で啓蒙的すぎる。そこには聞き手が抱いたであろう興味や疑問や関心などのドライブ感がない。『ワイプ』は病態がすでに解明されている時代遅れの病気である。日本の医療は先進国のなかでもトップクラスで世界一安全な医療を提供しているのだと、読者がとりあえず安心できる小学生の社会の教科書ような記事だ。そこには対立するかもしれない仮説の存在やリスクの可能性のかけらも見えない。やわらかに洗練されていてかつたしなめている。私も材料があればたぶん30分ほどで書ける。それで給料をもらって生計をたてている。

DJのトイレ休憩のようなスムースジャズの合間から、誰かが私の名前を呼んだ。会社名までついている。私が新聞から顔をあげると「あのー」と私の名前を言って、派手なプリント柄のティシャツを着た若い女子が目の前に立っていた。
「ええ」リタは答えた。
「このひとから荷物を預かってあなたに渡してくれと言われたんです」と名刺を差し出した。ユウジンのだった。
「えっ、彼はどこ?」
「15分前ぐらい前に急に用事ができたから行かなきゃいけないんだけどあなたがもうすぐここに来るからって。何かすごくあわてて出て行きましたけど」
「あなたは?」
「え~2階で、本読んでたんです。来週試験なんです」
と脇にはさんでいたフロイトの本を見せてくれた。
「あっ、そ、そうなの、ととにかくありがとう。えー、なんか食べる?」
「え~いいんですかぁ」
彼女にダブルチョコレートドーナッツとラテを買ってあげた。
「ねえ?なんで私ってわかったのかしら?」
「え~、だって週刊誌の記者みたいな髪型でピンクの携帯持ってる人ってあの男の人が言ってたし~」
リタは礼を言って手を振って彼女を2階に押しやった。荷物はユウジンの書類カバンだった。年季が入っていてこげ茶色に変色していて2つあるベルトがひとつ壊れていた。中から出てきたのは小さなノートPCひとつだった。
「たち上げて見ろってことだよなぁ」リタは電源キーを押した。急に呼び出されて新聞社にもどったのか?何か私に見せたい物があったのだろうか?リタはしばらくハードディスク内のフォルダをあちこち見て見たが特にそれらしきものはなかった。リタがため息をついて、パソコンをおとそうとおもった時、さっきの女子が出口に行きかけてからリタに近づいてきた。
「あの~あの男の人がディブイディがどうとか映像をコピーとかって言ってたの思い出したんです。なんか~とくだねかなんかですかぁ~。お仕事なんですね~かっこいいぃ」
「ああありがとう~。試験うまくいくといいね」リタは営業用のスマイルでさくっと言った。
「は~い、さよおなら~」彼女は本を抱えて自動ドアを出て言った。
いったい何をどうすればあんなに細くなれて、胸はあんな風に大きくなれるんだろう?意味がわかんなかった。DVD!リタはすぐにPCのドライブをチェックした。あほか、ドーナツ食う前にいえよ。リタはドライブに挿入されていたアイコンをダブルクリックした。ハンディで撮ったらしくぶれが時折あるものの鮮明な映像が流れた。整然とした会場。壇上からの挨拶。つるつるとした言葉の羅列。事は25分後に写っていた。誰かが壇上の男に何か叫んだ。カメラは聴衆側にブレながらパーンした。その男はカメラからすぐそばにいた。いきなり男の顔がアップになった。彼は撮影者に気がつきぎこちなく笑みを浮かべると封筒のようなものを差し出した。その後彼はポケットから何かを取り出し口に含んだ。すぐにうずくまって体を二つに折ったまま椅子から立ちがると左手に持っていた黒い筒のようなものを頭に向け、次ぎの瞬間ガシュッというものすごい大きな炸裂音がして男の顔がはじけとんだ。男はそのまま後ろに崩れおちた。映像が一度途切れた。映像が始まると、あたりの人々の悲鳴と怒号が飛び交っていた。「うそだろ・・・なんということだ、ああううう・・・」ユウジンの声が聞こえた。画面がおおきくなんどか揺れて映像が終わった。
ブルー画面のまま再生が続いている。リタは店内の人がこちらをチラチラ見ているのに気がつかなかった。音が大きかったのだ。あわててPCのボリュームを下げた。吐き気がした。吹き飛んだピンク色の残像が頭に残っている。偶然撮れた映像なのだろう。なまなましすぎる。映画やテレビドラマの映像に慣れているが、実際とはこんなにも日常の延長で予兆なしでグロテスクだ。リタは2階のトイレに駆け込んで吐いた。見てしまったものを全部吐きたかったけどうまく行かない。吐いている最中頭が混乱した。

うがいをしてペーパーナプキンで口を拭いてふらふらとスタバを出た。あれは今朝ニュースで報道されなかった。ユウジンはどこに行った。週刊誌の記者みたいな髪型だぁ?あのやろうもっとましな言い方ってものがあるだろうに。リタは細かい雨の中をよろよろと歩いた。知らないほうがいいこともある。知ってしまうと目の前が苦しく生き難くなる。ただどこにも行かない音楽を聞いていれば何も感じないですむかもしれない。
お昼時の商店街にはたくさんの人が歩いていた。知らなくてもいい映像を見てトイレで吐いた人はいないように思えた。それが幸せと言うのだと思った。
タイヤキ屋の前を通って大通りに出てタクシーを拾った。

2020.10.3

 

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