オンライン小説『リバウンド』rebound-048     高級マンションから脱出。

椅子にしばられたまましばらくじっとしていた。カップ麺のにおいとタバコの臭いも薄れてきた。
誰もいないのか?暖房のない部屋の寒さが急にやってきた。わき腹がずきずきする。何も音がしない。ぼくは後ろ手に縛られていたがぐずぐずと腕を動かしているとひもが緩みそうだ。大男がばたばたとしばったが縛られるときぼくは少し指を握って隙間を空けておいたのだ。そこを手がかりにぐずぐず腕を動かしていくと右手が抜けた。
よろよろと立ち上がった。流しにタバコが乱雑にもみ消されていた。カップめんとカップやきそばの残骸もあった。ノブを下げると水が出た。しばらく眺めた。それで、とうめんこれ以上悲惨なことにならないような気がした。手で水をすくって口をゆすいだ。真っ赤なみずを吐いた。

今では部屋は暗くなり、箱の中にいるようだ。スイッチパネルのどのスイッチを入れても明かりは点かない。カーテンを開けると、街灯の明かりや時折通る車のヘッライトなどで多少箱の中が見渡せる。ドアは内側のロックをはずしても開かなかった。わき腹とほおが痛んだ。もう一度流しに行き、殴られた顔を冷やして水をごくごくと飲んだ。「ふしっ」ぼくの声は暗い箱の中に小さく響いた。
これは現実的なピンチなんだ。メールであれこれ言いたいことを言われているのとはわけが違う。気持ちがざわざわしているとか、納得が行かないとか、誰かの役にたちたいとか、どうしたらいいのかわからないとかとはまったく違うのだ。一刻も早くここを出ないと今度こそ具体的にほんとにやばいことになると感じた。

終電近くでガクダイの駅に着いた。緊張がとけて階段でふらついた。脇腹が猛烈に痛む。体が芯から冷えていた。上着を着込んだ人々が、改札を抜けて左右それぞれの家路に急いで消えていく。この中にはマンションで縛られて頬とわき腹を殴られている人はいないように思えた。腹がすいている事に気がついた。ケンタの2階の洋食屋さんでハンバーグ定食でも食べようと狭い階段を上がりかけたとき、ポケットでピッチのバイブが動いた。あぁビサかな今日泊まりにきてくれるのかなと思ってディスプレイを見ると、見覚えのない番号からの着信。こんな時間にややこしいひとからの電話かな、やめとこっかなと思ったが出た。
「今どこにいるんですか?」週刊誌のリタだった。
「えっと、駅前だけど」狭い階段にぼくの声が響いた。
「今日どこにいたんですか?」
この間スタバであって話した時とは別人のようなビジネス口調だ。
「えっと・・・実は・・・」さっきまでのことをかいつまんで話した。
「それ、ほんとうですか?」
背後で電話の音や男性の声が聞こえる。まだオフィスにいるらしい。
「まずいかなと思ったけど、天井の煙感知装置に100円ライターを当てて、セキュリティシステムを誤作動させたんだ。部屋中水浸しになったけど、思った通り窓のロックが解除されたんだ。管理会社かなんかのクルマが来たみたいだけど、いろいろ聞かれるとめんどうだからベランダをつたって道に飛び降りたんだ」
リタは黙っている。
「あした朝一で警察に行こうと思ってる」
「あなたまだテレビ見てないんですね?」リタが通話口に手を寄せて小声で言った。
「ニュースにあなたの顔写真と名前が出てるわ・・・」
「えっ?」
「医者を殺したって」
「え?」
「その人有名な医者で・・・。私この間会ったばっかりなのよ」
ぼくも名前は知っていた。たしかどこかの大学病院で『セラ』治療ガイドライン作成に携わっている医者だ。
「オフィスで倒れているところを発見されたって」
階下から若い男女が上がってきた。ぼくはふいに壁に顔をそむけて彼らをやり過ごしてしまい、へんなおやじになってしまった。
「警備員がオフィスのベランダから逃げた男を目撃してて、監視カメラが撮っていて、暗いから良く見えなかったけど、背負ってるデイバックはあなたのみたいだったわ」
ぼくは背負っているディバックを見た。
「入り口が茶色のレンガの高級マンションでしょ?」
「そうだったかも知れない」
「警察はその男の行方を捜しているって」
ケイサツガユクエヲサガシテイルという言葉がぼくの空っぽの腹にずどんと落ちた。
とにかくわけがわからなかった。医者が殺された?ぼくは小男と大男に脅かされて縛られて殴られていたんだ。わき腹はまだずきずきするし頬ははれている。
「いま何してるとこ?」
「めしくって部屋に帰ろうかと思って・・・」
「テレビのあるところいっちゃだめよ」リタはまた電話するからと言って切った。
ぼくはハンバーグ定食を目の前にして、食べずに階段を下りた。頭が混乱して胃が緊張して足がふわふわしてる。周囲の音が耳に入らない。自分の心臓の鼓動が大きくひびいた。

高架下を通るいつもの道ではなくて、迂回して自分のアパートに向かった。街路樹の葉は大部分が枯れていたが、枝振りは排気ガスにまけずに我慢強く夜空に伸びている。いま歩いている自分は自分でないような感覚に襲われた。ユウメイナイシャヲコロシタ?ケイサツガサガシテイル?そんなはずがない。ぼくはさっきまで監禁されていたのだ。商店街をぬけると、夜はもっとしっかり夜になって、家々の門の明かりと街灯だけの世界になった。ぼくだけどぼくではないふわふわした足でとぼとぼ歩いた。だれかさっきのは間違いだと電話してきてくれよ。ポニーがいる公園の五差路の横断歩道で足をとめた。
「ニュースに名前と顔写真がでてた?」
ぼくは五差路からさらに迂回して細い高架下の道に入った。よく世話になった針灸師のオフィスを左に見るとぼくのアパートの入り口は直線上に見えるはずだ。
注意して見るまでもなくそれはわかりやすかった。路肩に見慣れないクルマが2台止まっていて、そのそばにコートを着た男が3人ほど立っていた。ひとりがたばこを吸っていて小さな赤い光が見えた。彼らが警察なのか。もしくはあの2人の仲間なのか。わからないがリタが言ったことは冗談ではなさそうだった。胃がぎゅうぅぅっとしめつけられる。あの2人は子どもの使いではなかったのだ、本格的なほうだったのだ。ぼくの何かが誰かを不愉快にさせているんだ。それでやめさせようとしているんだ。それはワンクリックメールや匿名で送ってくる中傷攻撃メールなどではなく、アナログで具体的で実際的な手段を使うほうだ。わきばらがじんじんと傷む。彼らが実際的でその気ならもうすでに部屋に入り、とっくにMacやノートを見たりしてるだろう。ぼくの何が気に入らないのかわからないが、いずれにせよ誰かがそうしようと決めたのだろう。それはもうかなりやばいくらいかなり本気なんだ。
ぼくは暗闇の中、アパートと反対側の高架下に隠れるようにしてその場を離れ、環七に抜けた。カキノキザカの大きな交差点を渡ってとなりの駅に向かった。疲れて腹が減っていて自分のアパートにも帰れないのはみじめな気分だった。とにかくどこかに向かって正気を保とうと思った。
暗闇の中を急ぐと、頭上を照らしているとがった冬の月だけが味方のように思えた。

2020.11.28

 

関連記事

  1. オンライン小説『リバウンド』rebound-062    損得…

  2. オンライン小説『リバウンド』rebound-032   ユウジンのDV…

  3. オンライン小説『リバウンド』rebound-057    ずっ…

  4. オンライン小説『リバウンド』rebound-014  リタ

  5. オンライン小説『リバウンド』rebound-029   娘とご両親。

  6. オンライン小説『リバウンド』rebound-055    屋根…

  7. オンライン小説『リバウンド』rebound-071    喪失…

  8. オンライン小説『リバウンド』rebound-067    事実…