前線は噴煙と怒号で混乱している。部隊は壊滅的だ。森の傾斜の中にうずくまってその様子を眺めた。
上司に忠実であるということは死ぬと言うことなのだが、その上司はとっくに逃げた。父親はみなのために立派に務めてこいと言ったが、その父親も死んだ。上官の命令は前線を死守せよということだった。誰のために? だいたいぼくは誰と戦っているのだ?
敵の迫撃砲は確実に塹壕にヒットしている。彼らに位置を特定されていることにもっと早く気がつくべきだったのだ。根性では父親から関心を持たれないのだ。父親とはただの醜いおっさんだったのだ。頭を上げず腹ばいにとにかく前進した。ベルトの中までどろが入ってきていた。5メートル先の大きな広葉樹の幹まで行かなくてはスナイパーに狙い撃ちされる。
警鐘を鳴らすとかいさぎよく戦うべきだとかみなのためにとかそうするべきとか様子を見ましょうとかじょうずにつきあいましょうとかいう言葉は当事者になったことのない無責任なひからびたくそだというあたりまえなことにやっと気がついた。ぐずぐずしてると、今にも爆音と共に頭の上に降ってくる15センチの弾頭に背骨を真っ二つに折られる。大音響がして数メートル後ろに迫撃砲が落ちた。炸裂音と同時に波のようなどろと砂に巻かれた。左耳がイカレて上下左右を失う。口の中に血の味がする。顔に熱い土が貼りつく。苦痛な意識に耐えられずふらふらと立ち上がって歩きだす同僚が次々に突入してくる工兵に狙撃されて倒れる。それでも立ち上がるものがいる。もうやめろもうやめろもうやめろもうやめろもうもうやめにするんだと叫んだがのどがつぶれていて声にならない。
屋根裏部屋はぎりぎりときしむ音がするくらい冷え込んでいた。ぼくはひざを抱いて眠っていた。足先が凍りつくように冷たい。梯子をおろす扉からかたかたと音がした。とっさにかぶっていたふとんをはいで通気口に這いでようとした。床下がぱかっと開いてゲンが顔を出した。
「警察から電話があったよ。あんたから連絡があったら教えて欲しいとさ」
警察はぼくのMacからクライアントのリストを見つけたのだ。
「ぼくが居るって言ったのか?」ぼくは胃がぎゅっとなった。
「いや」ゲンはペットボトルの水をぼくに差し出した。
のどがからからで水はありがたく奇跡のようにうまかった。ぼくはこぼしながらごくごくと飲んだ。ゲンは梯子をのぼりきり扉をきっちり閉めた。彼はリバウンドで二度自殺を試みた。トウキョーの出身だが『ワイプ』に長い間悩まされ入退院を繰り返していたがどうにもならず30歳で『セラ』を止めた。リバウンドがすぐに大爆発して、浸出液と包帯にまみれ会社を首になり、近所の住人に伝染病だと通報され部屋を追い出された。人里離れた温泉場を渡り歩いてこの山小屋にたどり着いたらしい。去年の春にぼくのホームページを見て、中古のジープで一般道を2晩走ってエビスのスタバに来た。インチキだったら殺すつもりでいたと後で聞いた。ジープにイノシシを解体する鉈を積んでいたらしい。
彼がポートランドから帰国した日ぼくらはエビスでビールを飲んだ。それは周囲の誰にもわからない祝いの時間だった。一度死んで生き返った人間が2人そろったのだ。べろべろに酔った大の男が二人、朝5時にエビス駅の改札で別れを惜しんでおいおいと泣いた。今では山小屋にいる理由も必要なくなったがしょうにあっていると言った。ゲンはひげが濃く今日はまだ剃っていない。あごに青く浮いている。トレードマークのアロハシャツ(年中着ているらしい)の襟がよれている。彼はあぐらをかいてまっすぐにぼくを見て言った。
「おれはあんたがいなかったら間違いなく今頃ここにはいない」
ぼくはくびを左右に振ってみたけど、彼のまっすぐな目を見てそうかもしれないなと小さくうなずいた。
「警察には言わない」ゲンは白髪交じりの長髪をがさがさと掻いた。首の回りにリバウンドの痕跡が見える。それはぼくら生き延びた者の勲章だ。
「今晩出て行くよ、ありがとう助かった」ぼくは言った。
生きて帰ってきたところには大事な人との生活がある。リバウンドを忘れ、生まれ変わって生きたい思うのは当たり前のことだ。あの症状がなくなったいま、別のややこしい問題を背負う必要などまったくない。
「これからスキー客だな」
「水ありがとう」ぼくは飲み干したペットボトルを振った。
ゲンはしばらくぼくをじっと見ていた。ぼくらにしかわからない密度を感じる。彼が毛むくじゃらな右手を差しだしてぼくの手が折れるくらい握った。
「体に気を付けろ。そのノートPC持ってってくれ役に立つはずだ」
ぼくはしびれた手の感覚を味わいながら胸が詰まった。
「ここもしばらくそうじしてないなぁ、スキーシーズンはバイト部屋になるんだ」
ゲンはふとんの山を見上げて言った。生き延びた者の心はやわらかくてあたたかい。ぼくはその場で泣き崩れてしまいたくなった。ややこしいことなんかどうでもいいし警察でもどこでも行ってしまえばいいと。なんとかかすれた声でありがとうと言った。山小屋の屋根裏部屋で、男二人は向き合って稀有な人生をしばらく分かち合った
早起き鳥が声をあげた。
ぼくは反撃をすることにした。
2021.1.7