「君はだれのおかげで食えていると思っているんだ?」カワムラは理事長室で電話を耳にあてていた。
「だれのおかげでその椅子に座っていられるのだ?」電話の主が続けた。
「君は自分のところのハエも追えないのか?私のところにも新聞やら雑誌やらが来ているというじゃないか?」
「はははい。ももうし訳ありません。すぐに事態を収拾させる所存でありまして・・・」カワムラは受話器を持ちながら頭をさげた。
「『ワイプ』なんてものはね昔からあったんだよ。あんなもの『セラ』を適当に塗らしときゃいんだよ。医者の指示に従わない患者のことをいちいちかまっていたら、きりがないじゃないか、きみぃ」
カワムラはレナのヒフのない顔を思い浮かべた。頭の中が真っ白になっていく。息苦しい。なんども小さく息をした。レナの小さな体に火がついて真っ赤に燃えだした。自分の内臓を切り裂かれているような感じがした。レナは燃え盛る炎の中で、父の助けを求めていた。
「おい、カワムラくん聞いているのかね?」
カワムラは返事をせずに受話器を置いた。正面の壁にある見慣れた絵がグロテスクにぐにょぐにょと動き出した。何かが浮き上がってくる。何かの植物の芽のようだ。むくむくと伸びてきて、白い大きな建物の窓をつきやぶる。稲妻が鳴る。建物は炎をあげて、がらがらと音を立てて崩れはじめた。
あんな絵いつからあそこにあったのだ?この椅子に座って何年になる?目の前のPCに病院のトップページが表示されている。病院の外観とちりひとつない青い空。自分のプロフィールを眺めた。長い略歴をスクロールした。厚生労働省『ワイプ』対策委員長を筆頭にいくつもの学会や団体の理事、委員長を兼任していた。驚くべき事に中には内容をまったくおぼえていないものもあった。
カワムラは自分の作り上げてきたものをしばらく眺めた。地方国立大学出身の自分にはコネもツテもなく、医局では長い間辛酸をなめた。事務方から毎日告げられる保険点数のノルマ。達成できないと能力がないとみなされる。一人一分の診察でも夕方までおわらない。患者の話しなどを聞いていたらどうなる?患者に向き合おうとすればするほど数字をクリアしない。患者に誠実であればあるほどトラブルになる。やればやるほどリスクが増える。こんな商売があるのか?いつの頃からか患者は敵と思うようになった。誰だってややこしいのはご免だ。
臨床薬の治検を引き継いだ時に道が開けた。医系お上は臨床を知らない。しかし、役人を敵に回わしてはいけない。役人を出世させてやることだ。医療者の説明モデルはそういった現実をつくることができる。自分にはビジネスの才覚があるのではと思った。臨床現場の需要を供給側に少しずつ与えてやるだけでうまみがあった。
『セラ』は30秒ですむ。点数があがる。ノルマは達成される。医者の負担も減る。職員や看護師らの雇用を守る。役人は出世する。製薬会社は潤う。保険制度を通じて国も潤う。敵も減る。そう思っていた。
レナは敵ではない。娘だ。
机の上の電話が自分への着信を示す点滅とコール音を繰り返している。もう出なくていいような気がした。
2021.1.14