オンライン小説『リバウンド』rebound-066    カワムラの頼み。

「頼みがあるのだ」彼が不意に言った。
「この病棟の個室に、その・・・『セラ』リバウンドと思われる患者がいるのだ。彼女を助けてほしい。もう・・・どうにもならんのだ」
彼が『セラ』リバウンドと発音したとき借りてきたことばを言うような感じがした。
「自宅の連絡先とキャッシュカードだ。暗証番号を書いておいた。家のものには話してある」彼は黄色いレターヘッドのきれっぱしとカードをぼくに握らせると早口で言った。
「えっ?」
ぼくは彼が何を言っているのか分からなくて声をあげた。彼はかまわず続けた。
「私は何もかも失うことになる」
いきなり彼はソファーを降りると床にひたいをつけた。
「頼むこの通りだ」
「ちょっちょっと待ってください。何がなんだか分かりません。頭を上げてください」
ぼくは彼を床から起こそうとしたが、たのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむたのむと繰り返したまま床にひたいをこすりつけて起きあがろうしない。その時、静かな廊下にエレベーターの到着する音が響いた。ち~んっ。がらんらんらんぷしゅー。ドアが開いて閉じる圧縮空気の音がして、10人ほどの男女が固まりになって降りた。ばたばたと床を踏みつけ誰かを探している。
「くそっ・・・もう来たのか」
彼は吐き捨てるようにそう言うとやっと床から顔を上げた。ゆっくり立ち上がると
「失礼した」と言った。
そこにには写真で見た威厳のある姿はなく、髪を乱し泣き崩れ赤い鼻をした中年オヤジがいた。今では廊下の一団があちこち歩きまわっている
「自分では何も創りださないで他人の人生を食いものにするやつらだ」
ぼくはその点については同意できるような気がしたが黙っていた。
あっ、いたいたー。カワムラ先生ー。一団の一人がそう言うとその固まりはいっせいにがしゃがしゃとこちらに走り出した。病棟にふさわしくない無配慮な音がした。
「カワムラ先生ちょっといいですかぁ~」
カワムラは白衣の乱れをさっとなおし、髪を指でかきあげ両手で顔をごしごしと拭いてハンカチで鼻をかんだ。それで少し壇上の男に戻った。
「君から見れば身勝手なことだと思うが、さっきの事ほんとに頼む」
カワムラは頭を下げて言った。
「警察は一度動いたからには君を捕まえないといけないのだ」
「でも、ぼくは何もやってない」
「わかってるわかってる。たぶん警察ももうわかっている。だから君は薬事法違反で逮捕される事になっていたのだ」
「ヤクジホウイハン?」
「とにかく世間の前にさらされる必要があるのだよ」
「そんな・・・」
「出過ぎた釘の顛末が必要なのだ。このままでしょうがないのだと患者は安心しなくてはいけないんだよ」
ぼくは黙って聞いた。
「人はみな幸せになりたいとは思っていないのだ。不遇は自分だけでなくて他にもいるからしょうがないのだと納得したいんだ。不遇は誰かのせいであればいいんだ。私たち医者はそれを知っていなくてはいけないのだよ。診断名とか病名とはそのために必要な時もあるのだよ」
カワムラは一団の方を向きながら言った。
「君とはもっとゆっくりとしたところで会いたかったよ、うまいものでも食べながらね。君の逮捕のことは私がなんとかできると思う。だから頼む。さっ、もう終わりだ。そこの左の個室へ入れ。やつらの餌食になる前に。ぐずぐずするな。さっ、行け」
一団はナースステーションの前を越えて、目の前に迫っていた。今では、ビデオカメラのライトらしきものがいくつか白く光っている。ぼくは何がなんだかわからないままにその個室のドアを開けて中へ入った。オレンジ色の部屋だった。

2021.1.22

 

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