・良い人になろうとしてしまう
Co:じゃ、まず、どんな風にたいへんだったのか探ってみようか。
AC:私は、良い人であろうとがんばってきて、疲れ果てました。
Co:誰にそう言われたのだと思います?良い人になれと。
AC:えっ?別に誰にも言われてません。良い人でなければいけないじゃないですか。
Co:そうかな~? 良い人になれないとしたら?
AC:だめでしょ。
Co:この不条理で不確実な社会でずっと良い子でいられるかしら?
AC:え?
Co:不条理な状況に直面して良い人でいられなくなったり、怒りに震えたり、無情な現実に泣き叫ぶことは命の流れから見ると自然なことだと思う。例えば、愛する人を守るためだったら何でもやってやるーと思うのは健全な気がする。
AC:うー。でも、良い人でいられない時は、自分はだめなんだと思うし、そんなことが続くと、こんな自分は生きていてもしょうがない、と自分を責めてしまうんです。
Co:例えば、過干渉や無関心などの否定的なメッセージの蔓延していた養育関係の中で育ったとすれば、何をやっても自分はだめで、不完全で、欠落しているものがあると認識してしまっても無理もありません。自分の存在とは恥のようなもので、誰にも関心をもたれず、愛されないと。そうすると、他者のようになろうと、理想的な良い人になろうと途方もない努力をし続けるかもしれません。
AC:・・・胸が苦しいです。
Co:他者のような理想的な良い人になど、どうやってもなれるはずもないので、その試みはだいたい失敗に終わる。そうすると、良い人になれない私はだめだという不健康な罪悪感を抱くかもしれません。
AC:良い人にならなければ、関心を向けてもらえないと思い込んでいるということですね?
Co:誰から?
AC:・・・。
Co:もらえなかったものが欲しい。それがないと生きていけない。それで良い子にならなければと必死になる。でも、そういった衝動は無意識の領域にあるから知らず知らずのうちに突き上げてくる。
AC:はい、頭ではわかっているつもりなんです。
Co:ずっと良い子でいられるはずはない。で、良い子になれない自分を責めて、罪悪感を持つ。
AC:私は悪い子なんです。だから誰にも愛されないんです。
こういった罪悪感は不健全な罪悪感と言える。親密な他者の目を自分自身の評価基準として取り込んでしまったまま固定化しているのかもしれない。親密な他者の関心をもらうため、あるいは他者に認めてもらうためにあれこれ行動しそれを自分の人生として生きてしまうかもしれない。
健全な罪悪感とは、自分の行動などでミスをしたときに、その感情を受け入れて感じるのが健全な罪悪感と言える。この感情は良心が機能していることを表している。この感情により、私たちは内省し行動を振り返り、今後の行動へ新たな工夫を見つけることができる。だから、健全な罪悪感を受け入れることは人間関係や自身の成長に役に立つと言える。
ところで、他者に関心をもらえない自分、良い子になれないという自分を懲罰的に裁くような不健全な罪悪感は行動よりも自身の信念によるものだろう。それを受け入れることは、まるで、自分自身の全人格を否定され、あるいは恥ずかしくて生きていてはいけないという指令をもらうこととして取り込んでいるので、なんとしても感じないように否認を続けなければいけない。
そうすると、意志の力で強く抵抗するという作業に没頭していく。
Co:これまでがんばって生きてきた、と言ったね?
AC:はい。
Co:どうやって?
AC:とにかく、誰にも迷惑をかけないように自分でなんとかしなくてはと。
Co:どんな力を主につかってきたのだと思う?
AC:え?どんな力?
Co:他者の期待に応え、何事もやり遂げられるものだし、気にいらない感情はコントロールできるものだという意志の力かな。
AC:はあ。(だってそりゃあそうでしょ、怒)
Co:でもね、対人関係の問題とはいつでも「相手」がいるね。仕事や社会にも複数の相手が介在する、それから、私たちの身体という相手にあたる心臓の鼓動や心の流れ、自然界という春夏秋冬の流れも意志の力でコントロールすることはできない。
AC:はあ。
Co:意志の力に頼りすぎているときに、対人関係の問題、仕事達成への過剰な執着、身体への過酷な負担をいとわない生活に陥るのかもしれない。
AC:あっ。でも意志の力がなかったら、ただのなまけものになってしまんではないでしょうか?
Co:どうせ完璧にはいかずだめなんだから全部をやめてしまおうっていうやつでしょ。
それが、意志の力を過信しているっていう状態だね。
AC:は?
Co:私たちはいずれにしても自分にしかなれない。自分以外の誰かになろうとすると苦しむ。
AC:?
2021.6